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親子の手紙が伝える戦争
Name   :   admin    (작성일 : 17-09-28 14:59:09 / Hit : 586)

親子の手紙が伝える戦争


ことし6月、宮崎県串間市の旧家の納戸から大量の手紙が見つかりました。その数、実に388通。この家で育ち、出征先の旧満州で23歳の若さで亡くなった男性が、太平洋戦争前後の5年間に両親と交わした往復書簡です。

私(記者・24歳)とほぼ同じ年で亡くなった若者は、戦争に対してどのような思いを抱いていたのか。発見した親族から手紙の束を借りて、読んでみることにしました。(宮崎局記者
牧野慎太朗)


戦時の生資料を読み解く 

手紙の読み込みを始めた当初は、1週間程度あればおおまかな内容はつかめるだろうと思っていましたが、実際には1か月以上かかりました。というのも、手紙は見つかったばかりで、戦史の研究者などによる分類や整理が一切行われていない生資料だったからです。保存状態は良かったものの時系列はばらばらで、いつどこで出された手紙なのかもわかりませんでした。

まずは年代順に手紙を並べるところから始め、貴重な歴史資料が傷まないよう、すべての手紙を写真に撮り、プリントしたものを使って分析を進めました。地名は満州の地図を取り寄せて参考にし、難解な軍事用語は専門家に教えを請いながら読み進めました。


見えてきた戦時下の日常

その結果、388通の手紙は昭和15年3月から17年11月にかけて交わされた一般郵便と、軍に召集された後の軍事郵便だったことがわかりました。手紙の差出人は主に2人。串間市で育ち、旧制中学校を卒業後に南満州鉄道に就職した田邉靖夫さんと、その母親のエイさんです。最初の手紙は当時17歳の靖夫さんが大連に到着した時から始まっていました。

 

「私は無事本日、大陸の一端大連のふ頭に第一歩を踏み込みました。門司を出ていよいよ沖に出て、島も見えなくなってくることから大変悲しくなりました。ご両親様もどうかよく和合されて平和に元気にお働きください」(靖夫/昭和15年3月13日)

 

南国の宮崎から厳寒の満州に向かった息子に、エイさんはすぐに手紙を返していました。

「1か月もたてば寒さも薄くなることと思いますから気を大きく持って務めて下さい。小包を送り、綿入れのチョッキが入っていますから洋服の下に着なさい」(エイ/昭和15年3月24日)



親子はたいへん筆まめで、手紙が届くと数日と置かずに返事をしていました。1通当たりの分量も便箋5枚ほどあり、まるで会話をするように日々の出来事やお互いへの思いやりの言葉を送り合っていました。

当時、靖夫さんが就いた仕事は、北部のハルビンでの港の管理。この時、中国戦線では激しい戦いが続いていましたが、2人の手紙からは、まだ戦争は遠いところにある様子がうかがえます。

開戦とともに変わる記述
そして

 

手紙の雰囲気が一変したのは、昭和16年12月に太平洋戦争が始まってからです。親子は偶然、同じ日に手紙を出していました。

 

「いよいよ太平洋はひっくり返りましたね。実に我々は皇国の最重大なる時局に生まれ喜びを禁じ得ません」(靖夫/昭和16年12月12日)

 

「女ながらもなにかお役に立ちたいと思います。どうあってもこの戦いに勝たねばなりません。靖ちゃんも一人息子ではあるが、兄弟4、5人分のご奉公をする決心にて、召されるまで体を大切に」(エイ/昭和16年12月12日)

 

一人息子を何より大切にしていたエイさんが、国のために命を懸けるよう息子の背中を押していた。このやり取りに衝撃を受けたのが、靖夫さんのおいで、納戸から手紙を見つけた田邉靖文さんです。私が手紙の内容を伝えると、靖文さんは「ばあちゃんは一人息子を失いたくないと思っていたはず。本当の気持ちじゃないんじゃないか」と話し、考え込んでしまいました。

開戦のよくとし、20歳を迎えた靖夫さんは、兵士として戦争に加わることになります。

「いよいよ兵隊さんです。例えようのないうれしさが全身に血の波を打って、天皇陛下に捧げる体でありますから、気ままなことは出来ないと思います」(靖夫/昭和17年6月4日)

 

こうした勇ましい手紙の一方、入営を前に2年半ぶりにふるさとに帰る際には、次のような言葉を書き送っていました。

「これが最後とばかりお母さんにも甘え、次のようなことも考えております。どこかに行きたいなと。夢かもしれませんが、私はそのつもりでけさからいます」(靖夫/昭和17年9月19日)



この言葉どおり、2人は大阪や奈良へ旅行に出かけましたが、これが親子がゆっくりと過ごす最後の時間となりました。

 

その後、陸軍で満州防衛の部隊に配属された靖夫さんは終戦時にソ連軍の捕虜となり、昭和21年8月に栄養失調で亡くなったとされています。エイさんのもとに帰ってきたのは、靖夫さんが亡くなった場所に落ちていたという石一つだけでした。戦後、エイさんは手紙を読み返しては涙を流していたということです。


戦時を追体験 募るなぜ

388通の手紙には時代の雰囲気が詰まっていました。しかし、戦争は自分自身や愛する息子が死ぬかもしれない恐ろしいもの。どうしてみずから喜んで加わっていくような書きぶりになるのか、その心情はなかなか理解できませんでした。当時の価値観にどっぷりつかった結果の「本音」なのか、それとも軍による検閲を意識し、本音を押し殺して書いた「建て前」だったのか。

 

戦時下の市民生活に詳しい埼玉大学の一ノ瀬俊也教授に話を聞きに行きました。教授の見解は「半分は本音で、半分は建て前なのではないか」というものでした。「誰でも戦争は怖いが、その現実からはどうしたって逃れられない。そうした中で、自分自身を納得させるために『これは国のためだ、天皇陛下のためだ』と盛んに手紙に書くことで、死への恐怖や心の葛藤から逃れようとしていたのではないか。戦争というのは権力者が一方的に押しつけるのではなく、国民みずからが反対できない空気を作り上げてしまうところに特徴があるし、今回見つかった手紙はその空気感をよく伝えている」と話していました。

市民を巻き込む戦争
親子の手紙を生かすには

今回、これだけ多くの手紙がまとまって見つかったのは、靖夫さんが入営前に実家に帰省した際、それまで受け取った手紙をすべて持ち帰っていたためです。

380通余りが一度に見つかるのは非常に珍しいということで、宮崎県の総合博物館に収蔵されました。

靖文さんは「普通の家庭を壊していく戦争の恐ろしさを伝えようと、手紙が出てきてくれたように感じる。子どもたちにもその内容を知ってほしい」と話していました。

戦後72年がたち、戦争のただなかを生きた人たちがどのような思いでいたのかは、今後ますますわからなくなっていきます。その一方で、北朝鮮問題などをめぐって再び戦争が起きてしまうのではないかという不安も出てきているように思います。一般市民はどのように戦争に巻き込まれていくのか。そのことを考える上で、今回見つかった手紙は私たちに貴重な示唆を与えてくれていると感じました。


[출처: 2017년 9월 25일자 NHK NEWS WEB]































































 


   


 

 

 

 

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